武田信玄が生まれたのは1521年。
上杉謙信が生まれたのは1530年。

日本における有名な戦国武将が生まれた世代に、スペインではサンタ・クルス侯爵(本名はアルバロ・デ・バサン、1526年生まれ)という、武将がいます。

彼は、「スペイン海軍の父」ともいわれ、スペインの海軍の知名度を上げることになったオスマントルコとの戦争、「レパントの戦い」で活躍したことで知られています。

今回は、サンタ・クルス侯爵を中心に時代の空気を読んでいきます。

①スペインの成長とサンタ・クルス侯爵の家系

サンタ・クルス侯爵の家系は、スペインが大航海時代に足を踏み入れ、ヨーロッパで最も勢いのある国になるまでの過程に貢献してきました。

サンタ・侯爵の祖父は、フェルナンド2世とイザベル1世に仕え、グラナダ戦争に従軍しました。スペインは4世紀後半くらいからイスラム勢力に侵略されつつも、12世紀になり十字軍の活躍により少しずる領土を奪還し、遂にグラナダ戦争をもってスペインがあるイベリア半島からイスラム勢力を追い出す国土回復運動が完了したのがグラナダ戦争です。
このときをもって、スペインは国内の紛争にひと段落をつけて、ヨーロッパや南アメリカ・東南アジアなど大航海時代に足を踏み入れていくのです。

サンタ・クルス侯爵の父親はカール5世に仕え海軍に所属していました。
カール5世は、サンタ・クルス侯爵の祖父が仕えたフェルナンド2世とイザベル1世の孫にあたります。孫ではあるのですが、フェルナンド2世とイザベル1世の後を継いだ娘フアナは精神的に不安定でとても統治ができないと判断され、孫である(フアナにとっては子供である)カール5世とフアナの共同統治でスペインを治めていたのです。
カール5世は、父方の血筋により神聖ローマ皇帝にもなり、スペインを広大な国にするとともに、西ヨーロッパのキリスト教徒の国にとって共通の敵であるオスマントルコ帝国(イスラム勢力)の牽制にも大きく貢献しました。
サンタ・クルス侯爵の父親も、1535年には、イスラム勢力によって支配されていたチュニスを、アンドレア・ドーリアという有名な海軍提督とともに戦い、見事奪還するというオスマントルコ牽制の重要な戦いにも参加しています。

そして、スペインがオスマントルコ帝国に大規模な海軍戦で勝利を治め、カール5世の息子フェリペ2世のもと黄金時代ともいえる国になる歴史的瞬間に、大きく貢献したのがサンタ・クルス侯爵になります。

それでは、次の項では、歴史的な海戦「レパントの海戦」について扱います。

②レパントの海戦

レパントの海戦は、オスマントルコ帝国に初めて大海戦において西ヨーロッパが勝利した記念すべき戦いで、これによってスペインの海軍の名を轟かすことに貢献します。
【発端】
レパントの海戦が起こった背景として、スペインの内乱が発端でした。スペインのアンダルシア周辺で改宗者のモーロ人を中心に内乱が起こり、内乱を起こしたグループがイスラム勢力に支援を頼みました。以前から、オスマントルコ帝国はイベリア半島の奪還を目論んでいたので、支援の成立可能性が高く、早急にスペイン側は内乱を鎮圧しました。

しかし、内乱は鎮圧したもののオスマントルコ側は西ヨーロッパへの侵略を始め、イタリアのヴェネツィアにとって貿易の拠点として重要なキプロスなどに侵攻し、多くのキリスト教者を殺したり、捕虜にしたりしていました。

ヴェネツィアはイタリアの教皇に呼びかけ、さらに教皇と密接に関係していたスペインに声をかけます。これよってイタリア諸国と教皇庁とスペインで神聖同盟を結び、オスマントルコ帝国と海戦で決戦することになったのです。
【参加した人々】
このとき、対象に選ばれたのは、スペイン国王フェリペ2世の異父母の弟ドン・フアン・デアウストリアでした。まだ24歳でしたが、この海戦の発端となった内乱を終息に貢献した功績が認められての抜擢でした。このときの活躍もあり後にネーデルラント提督にもなります。
また彼は、サンタ・クルス侯爵の父が参加したチュニス奪還後、再びイスラム勢力に占領され要塞を作られてまったのを、1573年に再び奪還することに成功しています。この要塞は非常に強力でスペインとって脅威であったため、奪還は偉業でした。しかし、国王フェリペ2世には要塞を解体するように指示を受けていたにもかかわらず、要塞を再利用する判断を独断でして、それが故にイスラム勢力にまた奪われてしまうという失態を犯しております。

そして、そのドン・フアンを中心とする艦隊の中で主力となったのがサンタ・クルス侯爵の艦隊でした。そして、活躍をします。

また、『ドン・キホーテ』の作者として知られるセルバンテスも艦隊に一卒兵として参加しており、海戦において高熱の中、奮闘し左手に重傷を負い、捕虜になるも、このときレパントの海戦に参加したことは彼にとって誇りでした。
【特徴】
レパントの海戦は、ガレー船が活躍した最後の戦いといわれています。
この海戦が起こったときには、大航海時代が始まって以来、かなりの年月が流れており、帆船による航海が最先端でした。しかし、荒れることの少ない地中海においては、櫂でこぐタイプのガレー船の方が先頭には小回りが利いて有利でした。
この時代にはもう火縄銃を始めとする火器は普及していていたものの、船に装備されている大砲はあくまで相手の威嚇くらいにしか使われていませんでした。基本的にはガレー船を相手のガレー船に衝突させて白兵戦がメインで、衝突する前に大砲を放ち相手の軌道を逸らせて有利な状況に持ち込むためのものが大砲でした(しかも大砲は1門など、ほんの少しでした)。
しかし、この海戦では、ガレアサという大砲を数多く搭載する大型船を導入しています。大砲によって相手の船を粉砕するという今までにない戦い方をなせた船でしたが、やはり重い分機動力がなく、戦闘が始まった瞬間は活躍するものの、すぐに敵のガレー船はこの大型船を避けてしまい、あまり活躍したとは言い難い船でもありました。
むしろこの海戦は、従来のガレー船の船首の先端を切り取り、一門の大砲の威嚇攻撃を有効に使って有利な白兵戦に持ち込むというアイディアが役に立ちました。このアイディアは、艦隊がレパント沖に向かう途中に、俊敏なイスラム兵をどのように制圧するか考える中、機転を利かせて思いついたというから、戦う瞬間までが大切なんだと思い知らされます。

③対イギリス戦

レパントの海戦以後、スペインは黄金期を迎えます。
しかし、その中で脅威となってきたのがイギリスでした。

イギリスがスペインに対して最も脅威となっていたのは、海賊だと思われます。
海賊といっても当時の女王・エリザベス1世が公認していたも同然な海賊になります。

当時のスペインは、南アメリカや東南アジアに植民地を作り、貿易を行い、利益を得ていました。特に、南アメリカのポトシ銀山はスペインの財政にとって重要な収入源でした。
その南アメリカのポトシ銀山からスペインまで銀を運ぶ船をイギリスの海賊が狙ったのでした。

他にも宗教的対立や、それ故のネーデルラントの紛争などありますが、このようにイギリスはスペインにとって脅威になりつつあるものでした。

レパントの海戦でリーダーを務めたドン・フアンも、ネーデル1576年にネーデルラント提督になったとき、スコットランドの女王で、イギリスの王位継承権も持っていたメアリー・スチュアートと結婚し、イギリスを制圧しようと考えました(もっとも1578年に急死してしまい話は破談となるが)。

サンタ・クルス侯爵もイギリスに対して、開戦をもって制圧すべきだと論じていました。

そして1588年には、イギリスと「アルマダの海戦」という有名な海戦を行うことになりました。

しかし、歴戦の武将・サンタ・クルス侯爵は、1年前にイギリスの海賊の制圧に対していわれのない罪をかぶされて、その不当な扱いから亡くなっていました。

そのため、「アルマダの海戦」のとき、スペインの艦隊は本来なら海戦の手練れであるサンタ・クルス侯爵をリーダーとして選ぶところを亡くなってしまっため、陸軍からリーダーを引っ張ってくることになり、「アルマダの海戦」ではところどころ海戦慣れしていないが故のミスを犯しています。

(もちろん、国王の信心による季節違いの出航や、スパイ合戦の敗北など色々な要因もあるのですが、)こうして、スペインは「アルマダの海戦」で敗北してしまい、大きくスペイン海軍の名声を落としてしまうのです。

※『物語 スペインの歴史』岩根国和、中公新書、2002.4.25
 を基本的に参照して執筆しました。
 こちらの本、「スペインの歴史」と銘打っていますが、ほとんどフェリペ2世の時代の付近の記述が多く、その時代に興味のある方にお勧めです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です